白黒よりも鮮やかで

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美醜に振り回されて

(note にも同じ文章を掲載しております)

美しさを巡る問題は、時に人生を棒に振るほど重大な問題だ。亡くなる前のマイケルジャクソンを覚えているだろうか。アフロヘアの美少年だったかつての面影はどこにもなかった。度重なる美容整形によって、すっかり変わってしまったのである。

マイケルジャクソンまでとは言わなくとも、誰しも多かれ少なかれ自分の容姿を気にしている。メイク動画の再生回数やファッション雑誌のコピーを見れば、ことの普遍性に想像がつく。

容姿の問題について思うとき、いつも思い出す友人がいる。今回は、その子の話をしていきたい。

Aちゃんはとても可愛い子だった。華奢で儚い雰囲気で。だが、「可愛い」というと彼女は決まって否定する。彼女の親族は美形だらけだからだそうだ、周りに比べたらわたしなんて全然、と。大きくなって、親族のみんなとは違うんだと気付いたそうだ。モデルのような、彫りの深い顔やパッチリ二重は諦めざるを得なかった。

しかし彼女には長い間一つ切り札があった。それは体重である。彼女は慢性的に(ストレス性の)腸炎を抱えていたため、どれだけ食べても太らなかった。めちゃくちゃ細かった。体重が軽いということが、唯一彼女の誇りだったという。(ストレスが誇りということに対して私は危険因子を感じたが)だが、それが治ったのと同じ頃、彼女は過食を繰り返すようになる。口唇の刺激がいかに甘美で、一時の慰めになるかということを彼女は知ってしまった。
こころの空腹で食べた栄養分は、からだの方にしっかり取り込まれた。

Aちゃんは、これではまずい、と思ったという。体重計の示す数字が(Aちゃんにとっての)限界値を超えたからだ。運動や食事制限にもトライした。だがそれでは足りなかった。もっと早くて大きい効果が欲しかった。そうして、彼女が手にしたのは下剤だった。

この魔法の薬のお陰で、Aちゃんの体重は軽くなった。副作用で肌は荒れてしまったけれど、そんなことは二の次だった。からだが軽くなるにつれて、こころも軽くなった。

しかし彼女は鏡を見て、気付く。自分は以前より見苦しくなってないか、と。鏡に映る彼女の姿はひどく疲れた様子で、全然美しくなかった。綺麗になりたい一心で努力したのに。どうして、真逆の方向に行ってしまったんだろう。

綺麗になる努力の方向が違う、それはそうなのだが、私は話を聞きながらそれ以前の方が重要なんじゃないかと思った。まず、彼女はいつからか、容姿の問題を体重の問題にすり替えてしまっていた。

彼女は、美しさの絶対条件は体重だと思うようになった。細くて綺麗なモデルさんの姿を絶対だと思い込み、そうなれない自分に対して、もう1人の自分が破壊を促す。ダイエットをする前、Aちゃんは過食をしていた。過食も下剤も自己破壊の一形態である。過食の理由をAちゃんは語らなかったが、これも下剤と同じように、完璧になれない自分を許せなかったのかもしれない。

自分自身に支配されているみたいだ、と思った。彼女の中には2人の自分がいて、この2つが上手くバランスを取れずに自滅の方向に向かっている。Aちゃんの自分に厳しく、努力家な一面は魅力ではあるけれど、裏を返せば、こうも自分の首を絞めてしまうのか。

たしかに、最近は「病的な」メイクも流行っており、病的なかわいさが一種の権威をもっている。だが、自己破壊によって得られた美?に落胆してる彼女の様子から考えて、病的な美はきっと彼女が望むものではないんだろう。

そもそも、彫りの深い顔や小さな顔、パッチリ二重など、典型的な美の要件で私たちは美人になれるのだろうか。

参考までに、この文章を引用したい。

本当の美しさは長いまつげや細い鼻筋の形をしていない。ましてや、押し付けられた役割を受け入れる卑屈さなんかじゃない。自分自身の価値観を守るために闘う意志である。貼られた値札なんかはがせばいい。それに気付けた時、何度でも自分の人生は始まってゆくのだ。

これは、学生ライターの篠原かをりが、村田沙耶著『しろいろの街の、その骨の体温の』に寄せて書いたものだ。この小説は、周りからブスと烙印を押された少女の話で、篠原はそれをもとに美醜の話をしている。本当の美しさは世の中が決めたものじゃない、自分の美しさの価値は自分で決めるのだ、と。

昔から、色気は知性に宿ると言われている。色気が美しさの必要条件ではないにせよ、このように人の魅力は外面的なものだけではないんだろう。

外面に振り回されて、憔悴しきっている彼女。私から見れば、Aちゃんは本当に美人なのだ。しかし、周りに流されず、自分の信じた道を突き進んだ先に本当の美はあるのだろう。



(Aちゃんの話はフィクションと織り交ぜています。)